ぼくが6歳のとき、家が大きく揺れたことがあった。
目を覚ますと、シミのついた木目の天井を目にするはずなのに、その日は父の顔が目の前にあった。
ビックリした。
叩き起こされて家から飛び出た阪神大震災の朝
ぼくの家は近所のなかでは比較的古い木造の家だった。
じいちゃんは「この家は丈夫や。一級建築士が設計した家やから丈夫や。」と昔からワケの分からないことを言っていた。
1995年1月17日、阪神大震災が起きた朝、ぼくは父親に叩き起こされてパジャマ姿のまま家の外に飛び出た。
コンクリートに落ちた瓦を避けながら近所の人も続々外に出てきた。
「大人も走って家から出てくることがあるんだな」
当時のぼくは、その瞬間にもたくさんの人の命がなくなっているなどこれっぽっちも知らず、呑気なことを思っていた。
体育館での生活とぼくの家
少ししてぼくたち家族は近くの小学校に住むことになった。
ぼくら以外にもたくさんの人達が体育館にいて、ぎゅうぎゅう詰めになって布団の上で生活していた。
あまり記憶が定かじゃないけど、ご飯はおにぎりとかカップラーメンとか炊き出しの豚汁を食べていた。
1度だけおやつで黒い角砂糖が配られたことがある。
しばらく甘いものなんて食べていなかったから、この角砂糖は死ぬほどうまかった。
もう1個食べたかったけどもちろんなかった。
避難生活中に何度か家に戻った。
ウチは2階建ての木造1軒屋。ぼくは2階で過ごすことが多かった。
テレビ のある2階の部屋は壁土で、ぼくがいつもそこに背中を付けて座るから母親は「壁土がぽろぽろ落ちるからやめなさい」と怒っていた。
その壁土がボロっと床に落ちていた。壁にあったのはベニヤ板だった。
部屋はまだ工事中の現場みたいになっていて、じぶんが過ごしていた場所には到底見えなかった。
1階の食卓の床は、棚から落ちて割れた食器で溢れていた。
珍しくて覗こうとダイニングに入ろうとすると「アカン!」と、割りとマジで怒られた。
1週間か2週間して家に帰った。
もとの生活レベルまで戻るまでどれくらいの時間が掛かったのかは覚えていない。
でも、近くのグラウンドには仮設住宅が続々と建てられて、ぼくが地震のことなんてとうの昔に忘れてしまった頃にも、まだそこで生活している人がたくさんいた。
ぼく自身も小学校に入って4、5年生になるまで仮説の教室で勉強した。
グランドがかなり小さくて不満だった。
6歳のときに阪神大震災を経験したぼくは地震は当たり前だと思っている
6歳というとやっと自分のアタマで色々考えられるようになる時期だと思う。算数とかをそろそろ始められる頃だ。
小学校入学を控え、阪神大震災が起きたとき、6歳のぼくに衝撃などなかった。
そして恥ずかしいことに、27歳の今でもその感覚は抜け切っていない。
誤解を恐れずに言うと、
「こういう地震ってよくあるんだあ。へえ。」
ぐらいの感覚が”阪神大震災のせい”で小さな身体に刻み込まれてしまったのだ。
東日本大震災のときも、此度の熊本地震も、テレビで映像を見て本当に心が傷んだ。でもこういう事態は、普通に起こるものだと震災のせいでぼくは”身体的に”知ってしまっている。
こんなぼくは不幸なのか?幸せなのか?
そんなことを考えていると吐き気がしてくる。